観泉寺
青梅街道の荻窪警察署横の道を北に行くと緑豊かなお寺といわれる観泉寺がある。
宝珠山本井院と号す曹洞宗のお寺で戦国時代の名門今川氏の菩提寺である。今川義元が桶狭間で織田信長に討たれ、その子氏真は徳川家康につかえ、慶長年間に近江国野州郡長島村500石を受領した。その孫今川13代直房は、殿中の儀式典礼、朝廷との交渉、日光や伊勢への代参の役をつとめる奥高家衆の役高1500石に取り立てられた。正保2年(1645)に京へ使いして、家康の霊に東照宮の称号を授与された功績で、功により井草村300石、上鷺宮135石、中村64石の計500石の加増をうけ従四位に叙せられた。
当時は10万石の大名でも、従四位下にはなかなかなれない時代であったから、表高1000石と役高1500石で、わずか2500石の今川氏の格式は10万石並とされた。そして今川氏の陣屋跡が杉並区今川の地名となり、この地域の支配が観泉寺で行われた。
井草村の観音寺を今川氏の支配下、観泉寺と改名して菩提寺とした。1760年代に再建された本堂と庫裡はともに区内最古の大型木造建築物で本堂前の1805年建造の宝塔には 一石一字写経石 (法華経を小石一個に一字ずつ書き写した。)が内臓されている。今川家墓所には慶長12年(1607)から明治20年(1887年)までの代々の墓計20基がおさめられている。また門前の左手にはたくさんの近隣の地蔵尊、石仏や石塔があつめられている。
武州多摩郡井草村は正保年間(1644−48年)以後2か村に分けられ、京都に近い西側を上井草村、東側は下井草村と名づけられた。しかし地元民は上井草村を遅野井村(おそのいむら)下井草村を井草村と呼んでいた。
現在の西武新宿線上井草駅、下井草駅付近。上井草駅から南に下って今川、桃井、上荻、天沼、青梅街道から中央線荻窪駅に至る地域である。
上井草村の別名の遅野井村(おそのいむら)の語源は善福寺川の水源となる善福寺池の遅野井戸からきており、昭和のはじめまであふれるほどの湧水があった。遅野井戸の名の由来は数説あるが一つに文治3年(1189年)源頼朝が奥州征伐の途中この地に宿陣し、飲み水を得るため弓の筈(はず:弓の両端のつるをかけるところ)で穴を掘ったが、水の出が遅かったので”遅いのう”と言ったとか。
善福寺川は善福寺池を水源として杉並区の中央部を蛇行して流れ、荻窪から中野区弥生町で神田川に合流する区内最長の川である。(約8.8km)この川の流域には古代から人が住み多くの遺跡が残っている。
徳川家康は江戸入府後、善福寺川・神田川・妙正寺川を給水源とする最初の上水といわれる小石川上水(のちの神田上水)をつくり江戸に給水した。
荻窪周辺には昭和初期に多くの文人が住み、南荻窪に与謝野寛・晶子夫妻が、太宰治が荻窪にそして井伏鱒二が下井草に居を構えていた。井伏鱒二の60年余にわたる荻窪での生活を綴った”荻窪風土記”がある。
=荻窪風土記=
その辺りには風よけの森に囲まれた農家一軒と、その隣に新しい平屋建ての家が一棟あるだけで、広々とした麦畑のなかに、人の姿といってはその野良着の男しか見えなかった。
私は畦道をまっすぐにそこまで行って、”おっさん、この土地を貸してくれないか”と言った。相手は麦の根元に土をかける作業を中止して、”貸してもいいよ。坪7銭だ。去年なら坪3銭5厘だがね。”と言った。
当時の荻窪はこんなところだったのだろう。
もとへ。
参照:江戸・東京 歴史の散歩道 町と暮らし社